以下の事件をアニメにしたものが『パパママバイバイ』だ。私が人生で初めて平和を求める映画の上映運動にかかわった作品だった。一日も早く、日本は真の独立を勝ち取るべきだ。
オスプレイ墜落の39年前、子供たちの命を奪った「横浜米軍機墜落事故」
スノーデンが日本人ジャーナリストに語った「米軍のおごり」
2016.12.29
1977年9月27日、横浜市緑区に米軍のファントム偵察機が墜落し、9人の死傷者を出した
PHOTO: JIJI PRESS
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米国国防総省の元契約職員、エドワード・スノーデンに対する独占取材に日本人として初めて成功したジャーナリストの小笠原みどり氏には、忘れられない記憶がある。小学校1年生のときに、自宅近くに米軍ファントム偵察機が突っ込み、死傷者9人の大惨事となったのだ。
オスプレイ事故は起こるべくして起こったのではないか? スノーデンが著者に語っていた警句とは何か? 安倍政権は米軍の操り人形なのか? 安倍・オバマの真珠湾訪問の裏側で、我々にのしかかる日米安保の闇を撃つ。
日本の住民より米軍優先
2016年12月13日、米軍普天間飛行場所属の垂直離着陸機・オスプレイが沖縄県名護市沿岸で墜落した。
オスプレイが危険きわまりない無理な乗り物であることを繰り返し指摘してきた人たちは、「ついに起きたか」と暗然たる気持ちになったことだろう。軍用機は世界中で事故を起こしているが、なかでもオスプレイは墜落を繰り返し、「欠陥機」と呼ばれてきたからのだから。
多くの人にとって、墜落はけっして「意外」ではなかった。
オスプレイ事故は起こるべくして起こったのではないか? スノーデンが著者に語っていた警句とは何か? 安倍政権は米軍の操り人形なのか? 安倍・オバマの真珠湾訪問の裏側で、我々にのしかかる日米安保の闇を撃つ。
日本の住民より米軍優先
2016年12月13日、米軍普天間飛行場所属の垂直離着陸機・オスプレイが沖縄県名護市沿岸で墜落した。
オスプレイが危険きわまりない無理な乗り物であることを繰り返し指摘してきた人たちは、「ついに起きたか」と暗然たる気持ちになったことだろう。軍用機は世界中で事故を起こしているが、なかでもオスプレイは墜落を繰り返し、「欠陥機」と呼ばれてきたからのだから。
多くの人にとって、墜落はけっして「意外」ではなかった。
(中略)
火の海となった横浜市緑区
私は小学校1年のとき、学校からの帰り道で、坂の上から飛行機が地上へ墜落するのを見た。
宇宙から降って来た黒いハレー彗星のように、空を右から左へ斜めに引き裂いた煙幕は地面に突き刺さって、轟音とともに風景を震わせた。ごく当たり前の1日の、ごく当たり前の昼下がりの景色に、乱入した巨大な悪魔。私は、夢ともうつつともつかぬまま、無性に不安にかられ、家へと駆けた。背中のランドセルで、筆箱が鼓動のように激しく鳴った。
1977年9月27日に起きた横浜米軍機墜落事故。私が暮らしていた横浜市緑区に米軍のファントム偵察機が突っ込んだのだ。荏田町(現・青葉区荏田北)の宅地造成地周辺は火の海となり、死傷者9人の大惨事となった。
私が家に帰り着いて間もなく、テレビの画面が速報を伝えた。米軍も偵察機もなんだかわからなかった7歳の私は、空から突然に降ってくる鋼鉄と燃料油の恐ろしさにおびえるだけだった。
パイロット2人は墜落直前にパラシュートで脱出して無傷だった。すぐに海上自衛隊のヘリコプターが駆けつけ、2人を米空軍厚木基地(神奈川県)へと運び去ったが、それを知ったのはもっとずっと後のことだ。ヘリコプターは現場の被災者を救出しなかったし、米軍も自衛隊も、事故の発生を消防に通報することはなかった。
横浜米軍機墜落事故の悲劇は、緑区の小学生にとって「死傷者9人」という乾いた数値では片付けられない生々しい痛みとして伝わった。
墜落現場近くの自宅にいた林和枝さんは当時26歳。息子である3歳の裕一郎くんと1歳の康弘ちゃんも一緒だった。3人とも全身に火傷を負って病院に運ばれた。裕一郎くんは翌28日午前0時40分に「バイバイ」の言葉を残して亡くなった。康弘ちゃんも未明の4時半に、「ぽっぽっぽー」と『鳩』の歌を口ずさみながら息を引き取った。
全身の8割に火傷を負って生死をさまよう母の和枝さんに、しかし夫や両親は子供たちの死を告げることができなかった。和枝さんは、皮膚のない体表面からの化膿を防ぐために、硝酸銀の薬浴など激痛を伴う治療を受け、肉親らからの皮膚移植手術を繰り返していた。
彼女が真実を知れば、生きようとする意志を失ってしまうかもしれない、と考えたからだ。
墜落から1年4ヵ月後に治療が一段落を迎えたとき、和枝さんは真実を知る。家族が病室でユウ君、ヤスちゃんの死を告げたのだ。和枝さんは大きなショックを受けて泣き続け、慟哭のなかで「2人の子どもをもう一度抱きしめたかった……」とつぶやいた。
数日後、自宅で幼子の遺骨と対面した。その日の和枝さんの闘病日記はこう記している。
〈ほんとほんとうに亡くなってしまったという事と、姿は変わってしまったが、子どもに会えたうれしさが入り混じり、胸がいっぱいになった。
今まで会えたらやさしく抱いてやりたい気持ちだったので、そっと康弘のお骨を抱いてやり、続いて裕一郎のそっと抱き話しかけるようにすると心が伝わったような感じがした。
でも、これが生きてこうとすることができたならば、ほんとうにうれしいが、遺骨と対面する結果になったのは残念でしょうがない。悲しい。
でも、裕一郎と康弘に約束をした。二人の分までママが一生懸命がんばって生き抜いていくことを。〉
(横浜米軍機墜落事故平和資料センター『1977・9・27—2015・9・27 横浜米軍機墜落事件年表 人々が残したもの』より)
自身と子どもたちのいのちと、何重にも身を切られ、深い嘆きと悲しみを胸に、和枝さんは再び生きる決意をした。
政治によってつくられた31歳の母親の死
ここで悲劇が終われば、残された者にはまだわずかな救いがあったかもしれない。
和枝さんは墜落事故から4年4ヵ月後の1982年1月26日、31歳で絶命する。70回におよぶ皮膚移植を受け、深い傷を負った体で、愛児たちの死を乗り越えようとすることは生易しいことではない。それも自然死ではない。人為的な死、日米安保という政治によってつくり出された死なのだ。
事故を起こした米兵2人は本国へ帰還し、横浜地検は2人を不起訴とした。日米地位協定により、米軍の代わりに賠償交渉の相手となった防衛施設庁(当時)は、事件当日から家族に無断で職員を被災者の入院先に詰めさせており、その後も和枝さんの治療方針の決定にかかわり続けた。
和枝さんは横浜防衛施設局に誠意がないと言って1日に10回も20回も電話をかけるなど、精神的に不安定な状態に陥っていった。肺炎で入院したのをきっかけに精神病院へ強制的に転院させられ、呼吸困難のため喉に入れていたカニューレを防衛施設局職員の立ち会いで抜かれた。
翌日、和枝さんは呼吸が苦しいと病院側に訴えるが相手にされず、防衛施設局職員が家族に「和枝さんはカニューレの抜去もすみ、大変元気です。ご安心ください」と電話している。
3日後、和枝さんは「心因性呼吸困難」で急逝した。
父の土志田勇さんは「予想も出来なかった和枝の死に、私は残念で、残念で、娘の命が断たれたという思いがしてなりませんでした。それは今も同じです」と記している(土志田勇『「あふれる愛」を継いで 米軍ジェット機が娘と孫を奪った』より)。
米軍機事故は、これほどまでに容赦仮借なく人の人生に襲いかかり、陰惨にまとわりついて、いのちを破壊した。ひとつの墜落事故が、無数の終わらない苦しみを生み出したのだ。
米軍ファントム機はまだこの世に誕生したばかりのいのちを続けざまに奪い、大人たちの身を焼き、切り刻んだ。飛び去った米兵と、苦しみに打ち捨てられ、殺された人々。
公平も、平等もあったものではない。正義は不問に付されたまま、米軍を守るべく、日本の「防衛」機関が暗躍する。不正義に抗おうとした和枝さんは鉄格子のはまった病室へ送られ、その声は奪われた。
私たちの日常は、実はいつもこの容赦仮借ない政治の闇、日米安保という戦争装置の下にある。
闇に葬られる過去
米軍機「事故」は、もちろんあってはならない重大事件だ。しかし、事故はこうして過去にも繰り返されてきた。横浜以外でも、日米安保という構造のなかで必然的に、生きようとするいのちを闇に飲み込んできた。
(以下略)
小笠原みどり
ジャーナリスト。朝日新聞記者を経て、2004年、米スタンフォード大でフルブライト・ジャーナリスト研修。現在、カナダ・クイーンズ大学大学院博士課程在籍。監視社会批判を続ける。新刊に『スノーデン、監視社会の恐怖を語る 独占インタビュー全記録』(毎日新聞出版)、共著に『共通番号制(マイナンバー)なんていらない!』(航思社)、共訳に『監視スタディーズ』(岩波書店)。
ジャーナリスト。朝日新聞記者を経て、2004年、米スタンフォード大でフルブライト・ジャーナリスト研修。現在、カナダ・クイーンズ大学大学院博士課程在籍。監視社会批判を続ける。新刊に『スノーデン、監視社会の恐怖を語る 独占インタビュー全記録』(毎日新聞出版)、共著に『共通番号制(マイナンバー)なんていらない!』(航思社)、共訳に『監視スタディーズ』(岩波書店)。